「薔薇の刺青」 助川久美子/作曲
Anthony K./作詞
あたたかな 陽だまりに 包まれて
幼な子目覚める
あたたかな まなざしに 守られて
夢から目覚める
あの人は誰 ひげを生やして
うでには 赤いバラ
あたたかな まなざしを 投げかけて
うでには 赤いバラ

幼な子は やさしい 母親に
そっと ささやく
幼な子は とまどう母親の
耳に ささやく
あの人は誰 夢に出てきて
うでには 赤いバラ
幼ない わたしを 胸に抱いて
うでには 赤いバラ
いとしいわが子よ どうして夢にその人が
幼ない おまえを 胸に抱いて
うでには 赤いバラ

母親は 幼な子を 胸に抱き
涙で 頬をぬらし
母親は とまどう 幼な子に
そっと 打ち明ける
いとしいわが子 どうか許して
こんな 母親を
その人は おまえの 父親よ
今でも 生きている
いとしいお母さん どうして嘘をついてたの
幼ない わたしを 胸に抱いて
父は 死んだはず

母親は 色あせた 写真を
箱から 取り出し
母親は とまどう 幼な子に
そっと 差し出す
いとしいわが子 これが私の
ただ一人 愛した人
あたたかな まなざしを 投げかけて
うでには 赤いバラ
いとしいわが子よ
あの日のことは今も胸に
幼ない おまえを 一人残し
あの人は 出て行った

幼な子は そのとき はじめて知る
夢が 教えること
幼な子は 手の中の 笑顔が
なぜか なつかしい
いとしいわが子 わかっていたわ
こんな 日がくると
幼ない おまえの 胸の中が
私には よくわかる
いとしいお母さん どうか教えてください
あの人は 今ごろ どこで何を
わたしを 覚えてる

あたたかな 陽だまりに 包まれて
少女は 目覚める
あたたかな まなざしに 守られて
少女は 目覚める
あの人はどこ きっと出会える
心 ときめかせ
あたたかな まなざしに 見送られ
少女は 旅立つ
あの人はどこ きっと出会える
心 ときめかせ
あたたかな まなざしに 見送られ
少女は 旅立つ
一人 旅立つ


アルバム
「オトナのための子守唄」から
助川久美子 vocal,woodbass
石井鉄也 acoustic guitar




助川久美子と私との間には、不思議なシンクロニシティがたびたび起こる。この曲の成り立ちにも、それがあった。相次ぐ大作の完成に気をよくして、作詞家としての私にもそれなりの意欲が出てきて、次に詞を書くとしたら、こんなイメージの作品にしたい、という構想が常に頭を占めるようになっていた。

このときも、親と子の壮大なドラマの構想が頭にあった。しかしそれはまだ具体的な形を伴わない漠然としたイメージにすぎなかった。それに明瞭な形を与えてくれるのは、いつも彼女の紡ぎ出すメロディーである。そのメロディーも、彼女が意識的に五線紙に向かって捻り出すというのではなく、ある日突然、天から降ってくるようにして彼女のもとへやってくる。その閃きを気長に待つことに、私は慣れていた。まあ、いつかは必ずその日が訪れるだろう、という具合に・・・。

その日は意外に早くやってきた。「何となく新しい曲が浮かんだ」と言って、彼女がギター片手に口ずさむそのメロディーを聴いたとたん、私はハタと膝を打った。「今度書くなら、こんな詞」のイメージにドンピシャリのメロディーだったのだ。

その旋律をもとに、私はすぐに構想を練り始めた。ところが、その構想があまりに壮大だったため、AとBしかなかったメロディーに、Cメロの追加を彼女に要求したところ、作詞家からのそのような要求に慣れていない彼女は大いに戸惑った。

すると、ここでもちょっとした奇跡が起きた。Cメロを考えるべく、AメロとBメロを彼女がピアノで弾いているのを傍らで聴いているうちに、私の中からCメロが出てきたのだ。

出来上がった3つの旋律を彼女がピアノで弾くのを録音し、それを繰り返し聴きながら、私はほとんど一晩で詞を書き上げた。

奇跡はもうひとつ起きた。演奏時間12分を超えるこの大作は、ベテラン歌手でも歌いこなすのは至難の業だろう。ましてや人前で歌を歌い始めてまだ日の浅い助川久美子にとっては、手に余る代物だったに違いない。

ところが、「薔薇の刺青」と名づけたこの曲を、ギタリスト石井鉄也とともに、あるライブハウスで演奏したところ、彼女は12分間まったく集中力を途切れさせることなく、完璧に歌い切ったのである。集中力だけでなく、語り口調といい、ニュアンス表現といい、そのパフォーマンスは、百戦錬磨のベテラン歌手もかくやと思われるほどの貫禄と風格さえ感じさせる見事なものだった。

ところが、困ったことがひとつ起きた。ライブ演奏の成功に弾みをつけられ、この曲をスタジオ録音しようということになったのだが、何度かリハーサルを重ね、日数を置いての二回の録音を経ても、あのときのライブ演奏に匹敵する(あるいはそれを超える)出来には至らないのである。プロデューサーも兼ねていた私は、憎まれ役に徹してNGを出し続けた

ミュージシャンなら誰でも一度は経験があるかもしれないが、ライブの空気は一種独特で、お金を払い、「さあ、いい演奏を聴くぞ」と身構えている客のエネルギーに乗せられて、演奏する側も普段の力を超える名演をものすることがある。しかし、それはその場限りのものであり、スタジオでそれを再現しろと言われても無理な話だと、割り切っているミュージシャンも多いようだ。私はそれを(いや、それを超えるものを)彼女に要求していたのだ。

助川久美子は崖っぷちに立たされた。3回目の録音で、もう後がない。失敗はもはや許されない。それよりも何よりも、あのライブでの名演を超えることなど、できるのか・・・。あのときは、何も考えず頭をカラッポにし、肩の力を抜いて、ただ詞のニュアンスを伝えるのに徹した。それが功を奏した。でも今は、プレッシャーという名の雑音が自分の頭を占めている・・・。彼女は、もう録音は諦めよう、というところまで追い詰められていた。

「風の人」の初演でみせた彼女の抵抗が蘇ってきた。そもそもなぜ音楽に言葉が必要なのか。音によるパフォーマンスだけで充分ではないか。そうした疑念に始まり、この曲を歌いこなせるほど、自分はまだ歌手として成熟していないということ、そして何より音楽そのものを続けていく意欲が失われていく・・・。2002年の12月も押し詰まった暮のことだった。

またしても私の説得工作が始まった。事務所のテーブルを挟んでの彼女とのやり取りは深夜に及び、会話の内容は、音楽のジャンルを離れ、そもそも芸術表現とは何か、なぜ人は生き、働くのか、といった根源的な問いかけにまで及んだ。しまいには、二人とも精根尽き果て、結論の出ぬまま、正月明けにとにかくもう一度スタジオを予約しようというところで、互いに帰路についた。

疲れた体と重い心を引きずってわが家にたどり着いた私を、意外なものが待っていた。すでに家族全員寝静まり、常備灯だけが照らし出す薄暗いリビングの、きれいに片付けられたテーブルの上に、たったひとつ載っているものを発見したとき、私は思わずわが目を疑った。それは一枚の薔薇の絵だった。見事に咲き誇る真紅の薔薇。暇さえあれば絵を描くことに夢中の娘(当時8歳)が、私に見せたくて置いておいたに違いない。子どもの描いた絵とは思えない見事な出来栄えだった。それにしても、なぜ薔薇の絵なのか。もちろん娘は「薔薇の刺青」のことなど知らない。そもそも私が音楽活動をしていることさえ、知らないはずだ。そして、なぜよりによって、今日この日なのだ。私には、どうしてもその絵が娘からの重要なメッセージに思えてならなかった。

「パパ、大丈夫。すべてOKよ。花は必ず咲くから・・・」

これは、後日娘に聞いた話だが、その日、何となく絵が描きたくなって、何を描こうかママに相談したところ、「花の絵でも描いたら」と言われ、何となく薔薇の絵を描いたという。あまり見事だったので、何かを見て描いたのかと聞くと、どうやら想像で描いたらしい。何が彼女をそうさせたかは、わからない。

年が明け、2003年の正月、助川久美子と私は、気分を新たにし、休みを返上して、3回目の収録に備え、猛特訓を開始した。私は一週間のスペシャルトレーニングプログラムを作った。学生時代、劇団に入って演劇活動をしていたときのノウハウが大いに役立った。柔軟体操、ジョギング、発声練習、滑舌をよくするための早口言葉。そして、歌にニュアンスを出すための歌詞の読み込み。最初は抑揚をつけずに読み、舌が音に慣れてきたら少し感情を込めて読み、歌詞に登場する人物別にセリフやナレーションを演じ分ける。プログラムの前半では、あえて歌わせずに、語り、演じることに集中させた。そして後半では、カラオケルームに行って、徹底的な歌い込みをさせた。そしてプログラム最後の日、スタジオ収録を明日に控えて、カラオケルームでの歌い込みは、明け方の4時に及んだ。「もういい加減にして引き上げよう」という私を尻目に、納得のいくまでやらせてくれと、助川久美子は意地をみせた。

収録当日、助川久美子はヨレヨレの状態でスタジオに入った。気が散るからといって、私はスタジオ入りを許されず、すべてを彼女に託して、近くのスーパー銭湯で時間をつぶした。そして3時間後、録音終了を告げる電話が入り、私はMDに仮録されたテイクを渡された。スタジオのマイクの向こうに観客の顔を思い浮かべ、その幻の観客に向けて語りかけることに徹したというそのテイクを聴いて、私は愕然とした。13分に達しようとする長丁場を、彼女は集中力を切らさず、ワン・テイクで歌い切ったという、しかも見事な表現力で。

「おめでとう。ライブを超えたね」

私は彼女の肩をポンと叩いた。彼女の顔に安堵の色が浮かんだ。

文/Anthony K.